『魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』感想(ネタバレあり)

今を逃したらもう追いつけない、と思ってこれまでのまでのもあわててレンタルしてみてから、映画にいきました。
それでも今さら感あって恥ずかしいんですけど、新編より前の部分もまとめて感想をかきます。
すごく【ネタバレあり】です。


新編以前
新編までの部分をみて、話題になってた理由もよくわかった。
人口に膾炙した「魔法少女」というフォーマットにのせた、斬新な表現やストーリーは人と話したくなる要素がたくさんある。
ストーリーに関しては噂でなんとなく衝撃的だと聞いていたが、予想外だったのは異空間や戦闘シーンの表現や美術だった。すごすぎ。東欧的なシュールやアヴァンギャルドといえるような映像表現のなかで「アニメ的」な少女のキャラクターが躍動する場面は映像的な美しさとスペクタクルが同居しているようで、映画館でみてみたかったな、と思った。
噂で少し聞いてはいたほうのストーリーも、評判に違わず、複雑ながらとてもきれいにできていて、そのバランスが素晴らしいなと思った。
発想の根本は、「魔法少女」という言葉が発端になっているのかな、とは感じられた。「魔法少女が少女じゃなくなったら、魔女になるんじゃないか」という発想。そこから、魔法少女になることはいいことではない、では、なぜ魔法少女にさせるのか→エネルギーを得るため、なぜ少女は魔法少女になるのか→代わりに願いを叶えてくれるから、というように、逆算していって、基本的な設定を考えたのかなあ、なんて、想像した。
もちろんこの設定もサプライズのひとつではあるが、この作品のすごいところは、さらに新しい事実があったことだ。暁美ほむらという、そのひとつ目のサプライズの内容を知っている人物。彼女は、鹿目まどかを「魔法少女にしない」ために何度も時間を遡ってきた。だから、この世界の摂理、魔法少女のルールを、サプライズも含めて知っている。
「知っている」人物を登場させるには、さまざまな方法があると思うが、それをSF的要素の「時間を繰り返していた」という設定にしていたのは面白かった。「魔法少女となる代わりに願いをひとつ叶える」というルールを生かしているし、そのあとの、まどかの願いへのステップにもなっている。ほむらの願いがあることで、まどかの願いが不自然なものではなくなっている。そうして考えてみると、さやか→きょうこ→ほむら→まどか、と、願いの抽象性、影響はどんどん大きくなっている。
あと、こういうなんか色々知っているキャラクターは魔法少女ものではけっこういるから、ミスディレクションにもなっているのではないだろうか。
「時間を繰り返す」というのは、『時をかける少女』もだけど、少女と相性がいいように思う。けなげに何度も抗えない運命に逆らおうとするのが様になるのかもしれない。
しかも、ほむらの抗いは、逆にまどかへ因果を集中させ、より強力な魔女へと変化させる手助けになってしまった。しかし、その守るべき存在だったまどかが自分に残された願いを使い、すべての魔法少女を救済する。自分の身を犠牲にして。
一度目の時間軸でまどかに守られていたほむらは、最後には再びまどかに守られることになる。守っているつもりが、結局は守られるという、お互いに無償に尽くす想い合いが表されているこの場面は感動的だ。この守る側の移り変わりは、いつの間にか習慣がまどかからほむらに入れ変わっていることに気付かせる。そしてほむらは、まどかと魔女が存在しない、まどかを自分だけが憶えている世界で生きていく。ほむらだけでなく、全ての魔法少女が救われた世界で。

新編
とてもきれいにこれまでが終わったので、新編はいったいどうなるのか、という意見も見かけた。たしかにそうだし、そもそもまどかが抽象的な存在になってしまってどうするのか。

だが、新編はまどかが当たり前のように登場する。異形のものと、ほむら、さやか、きょうこ、マミと共に戦っている。
そして旧編と同じように、まどかが目覚める。同じように目覚め、同じように歯を磨き、顔を洗い、同じように朝食を食べている。
違うところは、キュウベエがまどかのペットのようになり、マミを殺した魔女がベベとしてマミに飼われている点だ。(あと学校の制服のスカートが短くなってないかと思った)
旧編と少し違った世界。みている者は、いったいこれがどういう世界なのかも分からない。ほむらが何度も繰り返した世界のひとつなのか、それとも旧編のあとの世界なのか、または、旧編とはまったく関わりがないのか。微妙な違いが、不安にさせる。
しかし、その不安と対称的に異空間シーン、戦闘シーンの美しさはさらにパワーアップしており、目から映像が流れ込んできて圧倒された。映画館で、しかも最前列で見たからかもしれないが、視界がすべて異空間に埋め尽くされて、ずっとみていたいとも思えた。
ほむらが違和感に気付き始め、やはり主人公はほむらだということが分かる。その結果、旧編後の世界だということも何となく分かってくる。
しかし旧編とは逆で、ほむら以外にこの世界の秘密を知っているらしい人物が複数いる。
秘密を確認しようとする過程で、花畑で、ほむらとまどかが二人で話すシーンがとてもよかった。旧編の世界で、まどかが強いことを「知っている」ほむらは、まどかに真意を聞こうとする。しかし、まどかは自分にはそんなことは出来ない、と答える。まどかが「これからしてしまう」ことを既に「させてしまった」ことについて、ほむらは悔い、謝る。その矛盾が、彼女の気持ちの揺れと重なって、胸を打つ。周囲の花が一斉に咲き、枯れ、綿毛を飛ばすさまが心情に対応し描かれ美しい。こういった風景のなかに心的描写が表されているのも、けっこう特徴だった。これはほむらの作りだした世界だから、ということでもある。
この新編でも、サプライズはあった。
まずは、この世界が実はほむらが作り出してしまった世界だということ。そのことに気付いたほむらは、キュウベエたちの思い通りにさせないため、自ら魔女になることを選ぶ。まどかを支配されないために。
そのときに明かされるふたつめのサプライズが、べべやほむらの正体だ。
世界の仕組みに気付いたほむらへの救いだ。べべとさやかは「円環の理」となったまどかの「カバン持ち」のような存在だという。つまり、ふたたびほむらはまどかに救われるのだとも言える。
この場面は、敵の目をかいくぐり、意外なところから救いがくる、という王道のカタルシスを提供してくれる。ここから音楽が勇ましく鳴り響く戦闘シーンも素晴らしい。敵役であるキュウベエが思い通りに行かずに困惑する様に溜飲を下げるひとも多いだろう。

謎が解け、敵の思惑もくじき、大団円に向かうのかと思いきや、ここでも終わらずにみっつめのサプライズがあった。
ほむらの作りだした世界からみなが解放され、ソウルジェムが濁ったほむらのもとに、まどかが迎えにくる。そこで、ほむらはまどかを取り込み、世界を作り変えてしまうのだった。
自分の守りたかった、ただの人間だったころのまどかと、同じ世界に存在し続けるために。
その理由を、はっきり「愛」と言わせている。
守りたいという気持ちも、独占したいという気持ちも愛であり、何度も時間を繰り返したほむらによって、まどかへの因果が増したように、ほむらのまどかへの愛も増大し続けていたのだろう。それは、かつてない色にソウルジェムの色を変えるほどのエネルギーとなっていたのだ。
物語としてはほむらがまどかに導かれていくのが大団円かもしれないが、キャラクターの行動としては、この行動が必然なのかもしれない。ストーリーに対して、キャラクターが叛逆しているとも言えないだろうか。ちょっと無理があるかもしれない。
キュウベエは旧編で、「すべての魔法少女を救う」という願いをしたまどかに対し、「叛逆」という言葉を使った。だが、新編ではさらにまどかのつくった摂理に対してほむらが叛逆している。
それには、花畑での会話も影響しただろう。
概念となることに対して、まどかは「ほむらちゃんでも泣いちゃうようなこと、わたしにできるわけない」と言う。それを聞き、ほむらはそんなにひどいことをさせてしまった、と、悔やむ。相手の意思を尊重することも愛だが、愛ゆえに相手を止めることもある。その後悔も加わり、ほむらは確固たる意志で、まどかのための世界を作り上げたのではないだろうか。

旧編ほどきれいな終わりかたではないが、これで終わりでもおかしくない。でも、続きがあってももちろんおかしくない。でも旧編にあったんだからあって欲しいな。単純にもっとみたい。
ただ、変に謎を残してひっぱったりしないのは素晴らしい。完結でもおかしくない終り方。今はきっと謎を残しても、色々考察とか深読みとかの材料になるから、許されると思うんだけど(テレビドラマの映画化とかにも多い)、そうじゃないのはよかった。 

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 1000ピース [新編]叛逆の物語 1000-379

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 1000ピース [新編]叛逆の物語 1000-379